上野三碑その1
17日に上野三碑巡りをしてきました。上野三碑とは、群馬県(古代上野国)の高崎市南部地域に所在する、飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑の総称です。日本国内に現存する平安時代以前の古碑はわずかに十八例に過ぎず、高崎市内における三例の集中は、歴史的にきわめて特筆されます。上野三碑はいずれも国の特別史跡に指定されています。
「多胡碑鞘堂」、所在地は高崎市吉井町大字池字御門、御門という地名は多胡郡の政庁があったことを示しています。
「多胡碑」、多胡郡建郡の記念碑です。「続日本紀」和同四年三月辛亥(六日)の記事に「割上野国甘楽郡織裳・韓級・矢田・大家・緑野郡武美・片岡郡山等六郷、別置多胡郡」とあります。

「拓本」、弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘楽郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣る。左中弁・正五位下多治比真人、太政官・二品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊。
なお多治比真人(三宅麻呂)、石上(麻呂)尊、藤原(不比等)尊です。

「多胡郡のジオラマ」、織裳郷、韓級郷、矢田郷、大家郷、武美郷、山部郷の推定地、多胡郡の中に多胡碑、山上碑、金井沢碑の三碑があるのが分かります。

「多胡碑記の碑」、文学博士男爵細川潤次郎 明治十二年冬に上野三碑を巡覧した際の考証と現状が記されています。書は日本随一と言われた書家の日下部鳴鶴です。

「説明文」

「歌碑1」、郷土の歌人 藤原寛一 万代もいかでつきせじ名にしあふ ほまれぞのこる多胡の碑

「説明文」

「歌碑2」、初代群馬県令 楫取素彦 深草の売られるうちに埋もれし石文の 世にめづらるゝ時はきに来にけり

「説明文」

「歌碑3」、陸奥按察使 前中納言・姉小路有長 玉がしは書きのこしたるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかゞやく 安政三年正月

「説明文」

石碑を立てる文化は中国から朝鮮半島を経由して飛鳥時代にもたらされたものです。上野三碑は、古代東アジアの文化交流を示す重要な記録物として、平成二九年にユネスコの「世界の記憶」登録されました。
「多胡碑鞘堂」、所在地は高崎市吉井町大字池字御門、御門という地名は多胡郡の政庁があったことを示しています。
「多胡碑」、多胡郡建郡の記念碑です。「続日本紀」和同四年三月辛亥(六日)の記事に「割上野国甘楽郡織裳・韓級・矢田・大家・緑野郡武美・片岡郡山等六郷、別置多胡郡」とあります。
「拓本」、弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘楽郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣る。左中弁・正五位下多治比真人、太政官・二品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊。
なお多治比真人(三宅麻呂)、石上(麻呂)尊、藤原(不比等)尊です。
「多胡郡のジオラマ」、織裳郷、韓級郷、矢田郷、大家郷、武美郷、山部郷の推定地、多胡郡の中に多胡碑、山上碑、金井沢碑の三碑があるのが分かります。
「多胡碑記の碑」、文学博士男爵細川潤次郎 明治十二年冬に上野三碑を巡覧した際の考証と現状が記されています。書は日本随一と言われた書家の日下部鳴鶴です。
「説明文」
「歌碑1」、郷土の歌人 藤原寛一 万代もいかでつきせじ名にしあふ ほまれぞのこる多胡の碑
「説明文」
「歌碑2」、初代群馬県令 楫取素彦 深草の売られるうちに埋もれし石文の 世にめづらるゝ時はきに来にけり
「説明文」
「歌碑3」、陸奥按察使 前中納言・姉小路有長 玉がしは書きのこしたるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかゞやく 安政三年正月
「説明文」
石碑を立てる文化は中国から朝鮮半島を経由して飛鳥時代にもたらされたものです。上野三碑は、古代東アジアの文化交流を示す重要な記録物として、平成二九年にユネスコの「世界の記憶」登録されました。
この記事へのコメント
はるか1,300年前のロマンを掻きたててくれます。
この辺りは鏑川、烏川の合流地帯で生活もし易かったのでしょう。
三碑が存在するという事は
驚くことなんでしょうねー
二十九年に登録されたんですね
多胡碑鞘堂の中には入れないようですね。
それぞれ性格の異なる三つの石碑が近い距離で存在することは極めて珍しいころなのです。古代東国史の重要な資料です。そのことが世界に認められてユネスコの「世界の記憶」指定されました。
三碑はそれぞれ鞘堂に入っているのですが1年に1度公開されます。今年は3月6日公開です。この日は臨時便がたくさん出ます。以前は鞘堂の中に入り石碑に直接触れることが出来たのですが保護のため扉は開けられますが中に入ることは出来ません。
それぞれに駐車場があるので自家用車で巡ることは可能です。
多胡郡は緑野郡と合併して多野郡になるまで続きました。甘楽郡とは隣接していました。上信電鉄の沿線です。