赤城塚古墳
今日は大寒です。さて古海原前1号墳を見学を終えた後は邑楽町、館林市を通り越し再び板倉町に戻り赤城塚古墳を見ることにしました。頼母子横穴墓群から直にくれば近いのに20㎞以上回り道をしたことになります。ところが赤城塚古墳は予想に反して大変荒れた古墳でした。
「赤城塚古墳」、直径約30m、高さ約4mの円墳、4世紀後半、東毛における最古級の古墳の一つです。町指定史跡、危険につき立ち入り禁止とあります。丘の上にあるので実際より大きく見えます。
「赤城塚古墳」、標識と案内板
「案内板」
「赤城塚古墳」、西側に回ってみましたが木々が生い茂って古墳の姿は良く分かりません。
「古墳上の石碑」、この碑には何が書かれているのか近寄れないのでわかりません。
「西丘神社」、旧名は赤城神社、地名は西岡です。赤城塚古墳はこの神社の境内にあります。
「西丘神社」、本殿と拝殿です。丘の上に建っています。
「神楽殿」
「三角縁仏獣鏡の碑」、赤城塚古墳を有名にしているのはこの三角縁仏獣鏡(県指定重要文化財)があるからです。
「鏡陵皇太神碑」、安政4年(1857)建立、延宝4年(1676)に三角縁仏獣鏡が発見されたいきさつが刻まれています。地域の鎮護神として大切にされてきました。
「碑に刻まれた三角縁仏獣鏡」、文字だけでなく鏡も刻まれている珍しいものです。
「案内板」
「出羽三山」
「三角縁仏獣鏡」、板倉町立文化資料館のレプリカ、少なくとも数体の仏像が刻まれています。
「拡大」、1体のみ拡大してみました。
「模写の拡大」、上と違うものです。
仏教伝来が538年とすると古墳が4世紀末ですから三角縁仏獣鏡の持ち主ははるか以前に仏像の姿を見ていたことになるのです。三角縁仏獣鏡は三角縁神獣鏡の1種と考えることが出来ます。三角縁神獣鏡は全国で500面ほど出土していますが群馬県からは12面が出土しており東国随一です。しかし地元に残るのは2面のみで多くは東京にあります。出土品を地元に遺すようになったのは最近のことです。なお群馬県では古墳時代の銅鏡は200面以上あります。
「赤城塚古墳」、直径約30m、高さ約4mの円墳、4世紀後半、東毛における最古級の古墳の一つです。町指定史跡、危険につき立ち入り禁止とあります。丘の上にあるので実際より大きく見えます。
「赤城塚古墳」、標識と案内板
「案内板」
「赤城塚古墳」、西側に回ってみましたが木々が生い茂って古墳の姿は良く分かりません。
「古墳上の石碑」、この碑には何が書かれているのか近寄れないのでわかりません。
「西丘神社」、旧名は赤城神社、地名は西岡です。赤城塚古墳はこの神社の境内にあります。
「西丘神社」、本殿と拝殿です。丘の上に建っています。
「神楽殿」
「三角縁仏獣鏡の碑」、赤城塚古墳を有名にしているのはこの三角縁仏獣鏡(県指定重要文化財)があるからです。
「鏡陵皇太神碑」、安政4年(1857)建立、延宝4年(1676)に三角縁仏獣鏡が発見されたいきさつが刻まれています。地域の鎮護神として大切にされてきました。
「碑に刻まれた三角縁仏獣鏡」、文字だけでなく鏡も刻まれている珍しいものです。
「案内板」
「出羽三山」
「三角縁仏獣鏡」、板倉町立文化資料館のレプリカ、少なくとも数体の仏像が刻まれています。
「拡大」、1体のみ拡大してみました。
「模写の拡大」、上と違うものです。
仏教伝来が538年とすると古墳が4世紀末ですから三角縁仏獣鏡の持ち主ははるか以前に仏像の姿を見ていたことになるのです。三角縁仏獣鏡は三角縁神獣鏡の1種と考えることが出来ます。三角縁神獣鏡は全国で500面ほど出土していますが群馬県からは12面が出土しており東国随一です。しかし地元に残るのは2面のみで多くは東京にあります。出土品を地元に遺すようになったのは最近のことです。なお群馬県では古墳時代の銅鏡は200面以上あります。
この記事へのコメント
古墳もきちんと整備された
処も有れば住宅地となってしまって
いる所も
存続は難しいです
埼玉県でも多くの三角縁仏獣鏡が見つかっていると聞いていますが昔は群馬、埼玉の区別はなくて一帯が利根川流域に住んでいたのでしょう。
古墳が整備されるようになったのは最近のことです。戦後の高度成長期には宅地開発、工場用地開発で多くの古墳が失われました。高速道路や新幹線の建設で失われた古墳も多いです。やむを得ない所もありますが地域を代表するような貴重な古墳さえも壊されてしまったのは残念です。
仏教伝来以前に仏像が刻まれた鏡が既に伝わってきていたのですね。
公の仏教伝来以前に仏像が刻まれた鏡がありました。ただ仏教を知らない当時の人たちがどう思ったのかまではわかりません。神の1つだと思たのかもしれませんね。