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zoom RSS 歴史の町小幡散策その3

<<   作成日時 : 2017/04/14 05:37   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 28 / トラックバック 0 / コメント 6

 小幡は織田信長の次男、織田信雄が開いた町です。西側を流れる雄川より高い所にあるため2.3qほど上流から水を取り入れ実に巧妙な分水施設を作り町の隅々まで水を行き渡らせています。

 「楽山園」、城の中門です。楽山園は国指定名勝で群馬に残る唯一の大名庭園です。織田信雄が庭師藪中剣中に命じて7年の歳月をかけて完成させました。「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」
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 「十九間長屋」、藩邸の使用人が暮らしていた建物が復元されています。資料館になっています。
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 「屋敷跡」、藩邸の御殿があった場所です。後ろの山は京都のモミジを運んで植えたモミジ山です。
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 「梅の茶屋と腰掛茶屋」、梅の茶屋は庭園全景が見渡せる高台にある藩主が休憩したり景色を楽しんだ場所です。腰掛茶屋は珍しい五角形の建物です。
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 「梅」、梅の茶屋の隣にある古木です。
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 「昆明池」、梅の茶屋の中から見た所です。池泉回遊式庭園で「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園です。水は雄川堰(小堰)から引いています。
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 「ドローン」、群馬テレビが上空から撮影していました。
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 「借景」、南方にある連石山、熊倉山の山並みを借景としています。
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 「土塁」、城の遺構です。
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 ここからは少し南に離れた武家屋敷の一つ松浦家住宅です。

 「松浦家住宅」、小幡藩の武家屋敷として江戸時代後期に建てられました。
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 「松浦家住宅」、解体復元され今年から新たに内部も公開されました。屋根もトタン葺きを藁葺きに戻されました。
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 「内部」、土間から座敷を見ています。
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 「天井裏」、板や釘は使われていません。
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 「庭園」、堰の水を引き込んで山を借景にしています。
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 「四方竹」、住宅の西にある幹が4角形の竹です。楽山園にも植えられています。
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 「庭園越しに住宅を見たところ」
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 楽山園に入ったのは9時10分ごろでした。私の前に入ったのは1人だけです。腰掛茶屋で横笛の練習をしていました。私は梅の茶屋に上がってのんびりと庭園を鑑賞しました。朝7時から10時半まで3時間半の小幡の散策を終えて帰宅することにしました。途中七輿山古墳の桜を観て宗永寺裏西塚古墳と舟形石棺を見て家に帰りました。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
お早うございます!
楽山園は静かで落ち着けます。人の少ないのも良いですね。
池の配置と春と秋の景色が大好きです。特に周りの山を借りた処が好きです。
信徳
2017/04/14 06:55
信徳さん、おはようございます!
楽山園は2012年3月24日に開園しました。私は開園前から訪れていました。まだ5年でこれから年数がたてば落ち着いた雰囲気が出て来るでしょう。小幡藩はわずかに2万石でした。この小藩に大名庭園があるのも不思議ですよね。
楽老
2017/04/14 07:26
 初めまして、突然失礼致します。長さんのブログを拝見していて、riverさんの小学校1年生の遠足が烏川だったという事に興味があってこのページへやって来ました。やって来てもっとびっくりでした。ここには楽山園に宝積寺、小幡の街並み。懐かしい場所ばかり載っておりました。
 楽山園は復元中に寄りました。もちろん織田家の墓地も寄っております。宝積寺の檀家として育ち、小幡の街並みは小さい頃から見ておりました。

 お話の中で宝積寺が何度か焼けたと書かれておりましたが、その件は私もとっても残念に思っております。お寺と共に過去帳も焼けてしまったからです。
 
 生前の母の申した事には、何年か前、実家に見知らぬ方が見えたそうです。ご自分のルーツを調べていた方が、宝積寺へ行き、ルーツを調べている事を話すと、方丈さんはそれは実家ではないかと言われたそうで、実家を訪ねたと。ご先祖にお参りをしたかったらしいです。
 母は見知らぬ人だったけれど、折角見えたのだから、うちの先祖様に線香をあげて、ご先祖様に線香をあげた事にしておいて下さい。と言ったそうです。その方は線香をあげて帰られたそうです。本当のご先祖様が分かるまで、私の先祖はその方のご先祖にもなったようでした。宝積寺が焼けた事により分かるような、分からないような事柄も起きるのですね。

 お菊様が安らかでありますように。
菜の花
2017/04/14 08:40
織田家は大名とは言え禄高はすくないのに、立派な庭園を造ったものですね。
松浦家住宅のかすがいは耐震化しなければならなかったからでしょうね。
菜の花さんは以前、植物名の間違えを指摘していただいたりした、私にとっては先生です。最近書き込みがないので、どうされたかなと思っていたのですが、引き続きご覧いただいていたことが分かり嬉しいです。
長さん
2017/04/14 10:10
菜の花さん、初めまして、コメントありがとうございます。小幡にゆかりの方からコメントを頂けるとは大変うれしいです。私は小幡には縁もゆかりもございませんが小幡の町が好きで何度も訪れています。小幡の七福神めぐりも歩いています。国峰城も訪れています。
 お菊事件以来小幡家には不幸が続きました。永禄6年(1563)に同族の宇田城主小幡図書と宮崎城主の小幡彦三郎が争い戦いに敗れた図書が妻子ともども宝積寺に逃げ込みました。寺は図書を守り戦いましたが彦三郎方が庫裡に火を放ちました。このとき大活躍したのが僧の魯岳でした。図書は妻子を刺殺して自害し魯岳もあの岩の上で切腹しました。 小幡家ではお菊の怨霊を慰めるために菊女をはじめ母、姉妹、姪五人を大姉に祀り位牌を立て五大姉と呼んで朝夕回向を行ったと言われています。
毒蛇の入った箱に首だけ出して宝積寺の裏山の池に放り込まれた菊女は小柏源六に救われるのですが時すでに遅く事切れてしまいました。
楽老
2017/04/14 12:04
長さん、織田信雄は信長の次男とされていますが長男信孝より生まれた日は早いのです。生母の身分が低かったからだと言われています。数奇な運命をたどりましたが徳川家康は織田宗家は武士の本流として特別扱いしたのです。
松浦家のカスガイは耐震化のようです。本来はこんなものはなかったと思います。
楽老
2017/04/14 12:16

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